プログラミングに情操教育は必要か。
ある日、とあるツイートを見た。
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— Scratch & 子どもたち (@scratchhub31) 2021年3月10日
Pythonの第一歩は大抵「print('○○○')」なんですが、
ここで「○○○にみんながニッコリするセリフ入れて」って言うと、1ミリも動けなくなっちゃう子がいます。特に学校の勉強ができる子に多い。
構文とかも大事なんだけど、そこんトコが人間のお仕事なんだけどなー、って感じ。#考える力
なんてこった、プログラミング教育に情操教育を持ってきて『これができなければ人生終了ですよ』みたいなでかいツラをされてる。
そんなふうな感想しか出なかった。
私は自慢などではないが、(平成初期ではあったが)幸運にもPCやIT技術に理解のある家庭に生まれたし、父親や兄弟もその手の知識が豊富な方だった。(母はそういったものはあまり得意ではなかったが、ある程度理解してくれた。そんな母がくれたのはオタク心である)
閑話休題。
そもそも、小中学校などの基礎教育課程におけるプログラミング教育に要求されるのは、
あくまで
『Aを前提とし、そこにBと言う条件が追加された結果Cである』
という数学の証明に近い【論理的な思考】を育むことであって、決して誰かを笑わせたり考えさせたりするための【情緒的思考】などではないはずだ。
そういった事は【道徳】の授業でやるべきだと思う。
実際、文科省のプログラミング教育の実施事例では算数や理科、総合の授業が挙げられている。
つまり、文系的な情緒は不要ということがここでもわかるだろう。
総合の授業では道徳的な勉強や『考える力』に関する授業をやるじゃないか!という指摘はご尤もだ。
確かにやることもあるが、是非『教育者』と名乗る方々には、純粋なプログラミングというモノに、『人間の感情は介在しない』ことを前提として理解して欲しい。
プログラミングは機械と人間の会話であって、機械を通した人間と人間の会話ではない。後者は、サービスのように仕事などでそれを利用しようとした人間の思惑で発生するモノのはすだ。
そして、
『勉強ができる子ほど表示するだけのここで何も打てなくなる』と前述のツイートをした人は言うが、
発信する前の思考過程でそれを否定しないで欲しい。
子供の語彙力というのはバカにならない。
教育者が言う、『勉強ができる子ほど』みんなに見せるものに『みんなを笑わせることを書け』と言われて、書けなくなる事象はいくらでもある。
「これを書けばAくんは笑うだろう、しかしBちゃんは怒るかもしれない」
「読んだCちゃんから聞いたらCちゃんのお母さんはどう考えるだろう、もしかしたら先生に言って問題になってしまうかも」
「Dくんは?Eちゃんは??」
勉強に関する出来の有無にかかわらず、『頭がいい子』は上記のようなことをいくらでも思いつくかもしれない。
更には、情緒的な思考、情報の伝達による広がりを考えられる子は『万人受けする』言葉なんてないことに気づいてしまうだろう。
それを考えたら何を書けばいいのかなんてわからなくなって当然だ。それを『考える力がない』なんて、それは嘲弄や愚弄、むしろ子供に対する罵倒である。
こんなことを書いている私はプログラムをメインとしているSEであるけれど、
情緒系や発想の教育を重要視されている美術系の短大出身でwebデザインが専攻なのでそれに近い仕事もする。
残念ながら、情緒や発想を大事にしているからこそ仕事でデザインをする人は曖昧模糊な指示など聞けない。
いい感じでやってくれなんて言われたら脳内で5,6回は殴っている。
長々と続けてしまったが、冒頭のような考えが広範囲にいる一定層に素晴らしいなんて言われてしまうから、論理的考えを持ってる人が軽視される世の中なんじゃないかと、そう思ってしまうのだ。